入札 (Bidding)

 植木屋さんのような毎日、折にふれて商売が入ってきたら動きます。入ってこなければ自己研鑽。そんな中、通訳者・翻訳者が勝手に登録できるネット上の無料サイトがいくつかあるので、二つほどに登録してあります。ここから一カ月に2回程度、仕事の問い合わせがメールで入ってきます。

 この問い合わせのパターンはだいたい類似しています。「いつも依頼している通訳者、翻訳者の都合がつかないので、何とかならないか?」というパターン。そりゃそうで、依頼する側は気心や実力の知れた人間に依頼したいわけですから、どんな馬の骨とも知れない人間には通常は問い合わせはしてこないのですが、いつも頼んでいる人の都合がつかないという事態が起きるのでありましょう、「明日からいわき市の病院で3日間通訳できませんか?オーストラリア人の方が入院するものですから」とか、「マレーシアで法廷通訳があるんですが、来週行けませんか?」なんてのが来ます。事情を聞くと、やはりいつも頼んでいる人が急に都合がつかなくなったという次第。

 そうこうしていたら先日、とある日本のお役所とアメリカのお役所のミーティング通訳という話がメールで舞い込んできました。名前を言えば両方とも、あああそこというばかでかい組織。それなら事情を聞いてみるかと請負った会社へ連絡してみると、これがいつものパターンとはちょっと違って、なかなか適当な人がみつからないという事情なのだといいます。その会社の担当の方とお会いしたところ、そのミーティングは月1回2時間程度で1年間続き、1時間2,000円で通訳をとのこと。これは実際はどういうことになるかというと、ちゃんと責任持って仕事をするために事前に必要な資料を読みこんで準備するのに最低でも2時間ぐらいは当然ながらかかり、実際の現場へ行くのに往復3時間ぐらいはかかりますから、実質的には7時間4,000円で働いてくれということと同じにて、そりゃ通訳料金としては異例に低いのでお断りしようとしたら、とにかく人がいないので頼むと言われました。そうか、困ってらっしゃるんだと思い、それならまあ人助けのつもりでやるかと思いつつ更に事情を聞いてみました。

 要はその仕事は日本側の役所が通訳料を出すのですが、その役所が入札で業者を決めるということで、請負われた会社はそのお役所と他の仕事でお付き合いがあった縁で、通訳の仕事も頂戴しようということで入札に参加し、かなり低い料金を呈示したところ仕事が取れたとのこと。ところが受注した後でいろいろな通訳者に当たってみたところ、全て断られてしまったとの経緯でした。そりゃそうで、その料金で請け負う通訳者はまずいないでしょう。仕事をきっちりと責任持ってやるためには、上記したように通訳している時間以外にもそれ相応の時間を取って準備しますから、その料金じゃあ普通だったら断られちゃいますねえ、ということを担当の女性にご説明したら、ほんとに反省してますとのことでした。

 それじゃまあお困りでしょうからお助けしますよ、と言って別れた後2週間ぐらいしてメールがあり、「来週どこかで次のミーティングがありますので、お願いします」とのこと。お手伝いは約束して帰ってきたが、「ん?」と思ってしまう。「来週〇曜日に」ではなくて「来週どこかで」なわけ?改めてその女性にご連絡してみたところ、日米2つの組織の都合で、既にやった2回のミーティングもいつもこんな調子なのだと言います。最初は予定していた当日、アメリカ側の都合でキャンセルされたこともあるとのこと。それを聞いて唖然として、いったん約束したのを反故にするのはいかにも失礼と思いましたが、そうなると来週1週間全てスタンバイしなきゃいけない。つまり平日だとしても5日x24時間、120時間4000円で責任持って仕事をやれということに等しい切なさですので、これは結局お断りしました。依頼する役所の側もそこまで安易ではと。

 「入札」というのは、いかにも公平、英語で言えばfairというイメージでとらえられますが、僕はもともとあまり好きではありません。現役の頃、仕事上で何かを依頼しなければならない場面で、「相見積」というのは極力避けました。一番大事なのは、やってもらう仕事が質も高く、責任持ってやってもらうことだから、それはいくつかの業者さんと会って、仕事に対する姿勢を感じていく中で、この方にお願いしようと決めた方が、入札なり相見積なんぞするよりは正解であると思う人間だったので。金額が高くてこちらの予算と合わないなら、それは率直に伝えて何とか考えてもらえば良いわけで、別に堅苦しく「入札」などをしなくてもねえと思っていた次第。依頼する側もされる側も、お互い助け合い支え合い成長していくんだから。
 「金額」を主体に持ってきて物事を決めるというのは、いかにも無理がたたって、結果が何ともいい加減になることも多くあります。私への上記の通訳依頼のようなものです。

 しかしそういう考え方は古臭いということになったのでしょうか、オープンにして「入札」をしてフェアに動くべきである、というイメージが世間には染み通ったようであります。例えば建築業界の「談合」というものが、まったくけしからんということで袋叩きにあってきました。確かに「談合」という言葉には胡散臭いイメージがしみついてしまいました。
 ところが一方で、宮崎学という人などは「談合文化論」という本を書いて、「悪い談合もあるが、もともとの談合は、質の高い、責任ある仕事を行うための知恵だった」とまで書いていたりします。江戸時代まで遡って談合とは何かを探っていて、ご興味のある方は読まれると宜しいのですが、読んでみると確かに一理あります。もともとの「談合」とは、領主のお殿様たちからの指示命令に対してどう対応するか、百姓たちが集まって対応するという知恵だったとのこと。

 僕の極めて親しい友人の一人が土木建築会社を経営していますが、この「談合」というやつで随分といじめられて辛酸をなめてきました。自分のことはたなにあげ、地域のためにということを念頭に生きてきた、まるで梅ちゃん先生のようなお人よしなのですが、「奴は談合というけしからんことをする」ということで、錦の御旗を掲げた奴らから、恰好の餌食として標的となってしまいました。「談合」については、そんな身近な例も見ております。

 最近読んだ本にナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」という本があります。ミルトン・フリードマンという、一世を風靡したシカゴ学派の経済学者が標榜した「自由主義貿易」という聞こえの良い経済学説が、世界中でどれだけの悪業を働いたかを700ページにわたってあぶりだしています。「自由主義」といえば聞こえはいいが、要は「略奪」をやるための経済理論だっただけのこと、そういうことが書いてあります。

 どだい言葉には振り回されないで、中身をこそ見ないといけません。先回書いたように、恩師のお坊さんから何度も言われました。「釈迦を拝んではいけない。釈迦の説いた法をこそ拝みなさい」 と。最後に、ずっと以前に通信に書いたたとえ話をもう一回書きます。

僧侶たちが長い修行の旅から寺に戻ってくるときの話だ。高い山を越え、低い谷をたどり、一行はある日、荒れ狂う川のほとりにやってきた。見れば妙齢のきれいな女が立っている。女はいちばん年かさの僧に近づいて頼んだ。「申し訳ございませぬが、老師様、向こう岸に渡らせていただけないでしょうか。私は泳げませんし、このままここにいるか、自分で渡ろうとすれば死んでしまいます」。老師はにっこりと笑うと「もちろんお助けしましょう」と答え、女を担いで川を渡り、岸に着くとそっと女を降ろした。女は礼を言って去っていき、一行は旅を続けた。
辛い旅をさらに5日つづけ、ようやく寺に着くなり、僧侶たちは怒って老師に詰め寄った。「どうしてあんなことをなさったのです」と彼らは責める。「あなたは戒律を破られた。女人に手を触れられたのですぞ」
老師は答えた。「わしは女を担いで川を渡っただけだ。おぬしたちは、5日間、女人を心に抱いておったのだぞ」

談合文化論
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宮崎 学
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